創部100周年記念誌


神戸大学マンドリンクラブは2015年に創部100周年を迎えました。それを記念し、創部100周年記念誌を作成しております。

 ・神戸大学マンドリンクラブ100th Anniversary 記念誌

 ・2015年8月1日発行

 ・国立国会図書館本館に蔵書(閲覧請求番号:KD268-L54)

 

ここではその一部を公開いたします。

弦友会会員の皆様には、折々にお手元の記念誌を手にとってご覧いただけましたら幸いです。


あゆみ随想


よみがえり大きく羽ばたく不死鳥

〜KUMCの再生復活と発展~

弦友会会長 9回生 今崎良平

 

 神戸大学の源流である神戸高等商業学校の音楽部に1915年マンドリンが初めて持ち込まれ、やがてマンドリン合奏団が組成されて、積極的な運営と高い演奏技術で神戸商業大学に昇格後も隆盛を誇ります。

 しかし1941年に第ニ次世界大戦が始まると西洋音楽は敵性文化として次第に圧迫され衰退してゆきました。戦時中「神戸商業大学音楽部マンドリン班」の名前で細々ながら活動していた先輩方は、やがて学徒動員で楽器を銃に持ち替えて戦場へ、そして1944年にマンドリン音楽の灯が消える頃には校名が神戸経済大学に変わっていました。

 1945年に終戦、そして途絶えていたマンドリンやギターの音色がキャンパスに再び響いたのは1947年4月 神戸経済大学マンドリンクラブとして10名ばかりの部員が♪山撒詩♪や♪古戦場の秋♪を感無量で合奏したのが戦後のスタートとなりました。そして1949年にわが校が新制の国立総合大学として神戸大学となった年にマンドリンクラブは県立神戸商大(現兵庫県立大学)の協カを得て戦後第一回の定演を開いています。当時六甲台の講堂がアメリカ駐留軍の将校クラブとして接収されたままであり、また「蛸の足大学」と称されるくらいに各学部の校舎が分散していてクラブ活動もままならなかったと思います。定期演奏会はその後第四回まで続きましたが次第に衰えマンドリン系の部員がいなくなって1955年頃には松田二朗氏(プロギター奏者の現松田晃演氏)たちによるサークル活助的な古典ギタークラブとなりました。

 1957年入学の私たち9回生が入会したのはこの古典ギタークラブでした。少人数の和やかな雰囲気でしたがヴェテランの先輩方が卒業され残った散人の仲問で運営について松田氏とも相談しながら慎重に考え、今後部活動を継続発展させるために伝統のあるマンドリンクラブを思い切って復活させようと決めました。そして1958年5月開学記念祭で六甲台講堂でのギターコンサートが古典ギタークラブとしての最後の演奏活動となりました。そのときにご来聴くださった僅か30人ばかりのお客様に舞台から感謝しながら「いつの日か自分たちのカで一流大ホールを満席にするような立派なコンサートをしてやろう」と秘かに誓ったものです。そして古典ギタークラブを発展的に解消しマンドリンクラブ再生へと始動することになります。おぼつかないながらもKUMCが再々度不死鳥のようによみがえる時が来たのです。

 KUMC再生復活の意向を大学の事務局に報告すると事務官が「待ってました」とばかり倉庫に案内してくださって大切に保管されていた楽譜やマンドローネ、マンドセロ、マンドラなど旧マンドリンクラブが所有していた楽器の引き渡しを受けました。そしてマンドリンクラブが学内外で人気があったこと、大学事務局の女性職員もマンドリン奏者として合妻に参加していたこと、終戦直後に芋畑となったグラウンドで不要備品としてギタローネは焼却されたがマンドローネなどは事務官たちの機転で燃やされずに残ったことなどを聞いて生き延びた楽器を思わず抱きしめたものです。

 新生のクラブは私たち古典ギタークラブからのメンバーを基にして新たに部員を募集し新入部員のギターは松田氏に、マンドリンは松田氏の紹介で慶慮義塾大学マンドリンクラブOBの月村嘉孝先生の指導を受けました。そして問もなく神戸大学マンドリンクラブKUMCとしての復部が大学から正式に認められたのです。

 翌1959年の春に11回生を迎えて次第に部としての体制が整い文化総部の総会でKUMCの加入が承認されて予算をいただくことになります。KUMCの文化総部仲問入りを熱心に支援して予算配分にも快く同意してくれた交響楽団、グリークラブ、児童文化研究会、演劇部などの方々の温かさが身に沁みました。

 当時の練習はまだマンドリンとギターの二重奏でしたが、この年の夏に有馬の近くの多聞寺で14人の部員で行った初めての合宿で1st、 2ndマンドリン、マンドラとギターの各パートに分かれて♪マンドリニストのワルツ♪などの曲の合奏を始めました。

 そして秋には学内コンサートなどで楽しさと親しみを感じていただいたのか入部者が相次いで一挙に大所帯の部になります。

 翌1960年の3月岡山県の真賀温泉での合宿は厳しい中にもにぎやかで楽しい雰囲気でした。とにかく演奏のレベルアップのためにいろいろなエ夫をしました。部貝同士1対1で教え合う"師弟制度"、上 級生たちが取り囲む中で下級生が一人づつ指定されたフレーズを弾く"面弾"、舞台度胸のためと称して深夜に宿所の周りで行われた"胆だめし"、パート練習で音とリズムが揃うまでそのパート全員が食事できない"お預け"など・・・これらはやり方は変わっても今でも現役部員たちに受け継がれていると思います。出来上がってきたばかりのKUMC部旗がこの合宿で初登場しました。濃い緑色の中に鮮やかな黄色文字、これは六甲山の深い緑に包まれて成長してゆく新生KUMCを象徴したもので常緑樹のように今後絶えることなく続くようにとの切なる願いが込められているのです。
 新進気鋭の12回生たちを迎えて問もないこの年の5月に復活後初めての学外演奏会《Early Summer Concert》を神戸農業会館ホールで開催、当時神戸で活躍されていた社会人のパンジョー楽団の応援を得てラジオ神戸(現ラジオ関西)のアナウンサーの軽妙な司会で好評でした。 このコンサートで自信を得た私たちは今年の年末には定演を!との目標を持って戸隠高原での合宿に入り信州の夏を満喫しながら一段と演奏の腕を磨きます。合宿中に定演の企画について野心派と慎重派に分かれて激しい議論が続きましたが結局神戸国際会館で有料にしようと決めました。約2,000席の神戸では一流のこの会館を12月6日夜の予約ができて復活後第一回戦後通算五回目の定演問催の目途が立ちました。入場料は300円、現在の貨幣価値では2,000円くらいでしょうか。

 KUMC定演復活を喜び応援してくださった多くの方々・・・同じ12月には自分たちの定演があるのにコントラバス奏者を一人楽器と共に派遣してくれた神大交響楽団、楽語面で援助いただいた県立商大マンドリンクラブ、そしてマンドラとマンドセロで応援出演を引き受けてくださった関西学院大学マンドリンクラブなど。
 一方で「時期尚早」「猪突猛進」「身のほど知らず」など周囲の雑音も聞こえてきましたが、それを跳ね除ける熱いエネルギーがわれわれに漲っていたと思います。当日まであと僅か4か月足らず、定まっ た場所が確保できず、六甲、住吉、御影学舎と日普わり状熊の中で連日何時間も練習に励みました。

 摩耶ユースホステルでの秋の強化合宿では朝から10時問を超える練習を終えて消灯後も布団の上で黙々と左手の運指練習をしていた人、指先が破れて出血しながら合奏していた人の様子などを今でもはっきりと思い出します。
 松陰女子短大コーラス部の応捜出演を得て迎えた定演は盛会に終わり部の基礎固めができました。年が明けて3月に私たち9回生は卒業、残った10回生以下が頑張り13回、14回生が活躍する頃には100名を超える大きな部になりました。その後学園紛争や大震災を越えてKUMCは神大文化総部の雄として発展し、大西功造氏や竹間久枝さんと新進のプロマンドリニストを輩出しています。後輩たちの連綿とし た努カのお蔭で今年2015年創部100周年を迎えることは喜ばしい限りです。

 なおKUMC卒の同窓会が弦友会の名前で1963年に発足しOBOGたちの親睦交流とKUMC現役への支援を行っています。この弦友会員は今や1,000人近くになり各年代の縦の関係が希薄になりつつありましたが、弦友会事務局の多大な努カで2011年より毎年「KUMCのつどい」が母校で開かれ多数のOBOGと現役部員のほぼ全員が一堂に会して合奏や歓談を楽しみ先輩後輩の幹を強めています。

 機が熟して追い風だったとはいえKUMCを復活させ軌道に乗せることができたのは旧マンドリンクラブの先輩の方々の七光りであり、また学内外の方々の暖かいご支援のお蔭だと感謝の気持ちにたえません。

 社会環境の変化が激しくまた当然学生気質も移り変わる中で今後単なる従来の延長上ではKUMCが永続できるとは思えません。部に伝統的な和とチャレンジ精神を大切にしながら事なかれ主義やマンネリズムに陥ることなく常に進取改革の姿勢で臨んでほしいと願います。例えばわが神大はEUと密接な関係にあり欧州に大学の拠点を持っています。日欧の学術交流のみでなくこの関係を活かした音楽交流を目指してはいかがでしょうか。近年マンドリン音楽が盛んなドイツへのアプローチなどKUMCにとってメリットがあると思います。いろいろなエ夫を重ねてKUMCが関西の、日本のそして世界のマンドリン界のトップランナーとして活躍の舞台を広げてくれますように、私たち先輩も協力支援を惜しみません。