創部100周年記念誌


神戸大学マンドリンクラブは2015年に創部100周年を迎えました。それを記念し、創部100周年記念誌を作成しております。

 ・神戸大学マンドリンクラブ100th Anniversary 記念誌

 ・2015年8月1日発行

 ・国立国会図書館本館に蔵書(閲覧請求番号:KD268-L54)

 

ここではその一部を公開いたします。

弦友会会員の皆様には、折々にお手元の記念誌を手にとってご覧いただけましたら幸いです。


立ち上がれ!KUMC


 KUMCの活動の歴史の中で、第ニ次世界大戦前後の苦雛については私たちの想像をはるかに超えていますが戦後復活して後の歴史の中にも世の中の大きな波を乗り切って来た時期があります。

 

熱い思いが道を拓く

 

 KUMCが複活したのは1959年の春、わずかな人数でスタートしたクラブが,翌1960年の12月には神戸国際会館に2000人の聴衆を集めて復活第1回(通算第5回)の定期演奏会を開いています。奇跡としか思えません。

 日本がまさに高度成長に向けて奇跡の階段を上り始めた時期でもありました。1964年に新幹線が開業、東京オリンピックが開催されます。

 この時代に今日のクラブ活動の核となる活動が、全て(と言ってよいでしょう)企画され、実行されています。

 初めての活動や新い、ルールを創って行くことは、当時運営に当たられた方々にとっては、さぞやたいへんなご苦労であったかと推察しますが、思い出の記からは「クラブ再生に向けて」失敗を恐れることなく挑戦を続けて道を拓いた熱い思いが伝わって来ます。

 合宿、面弾、師弟制度、オアシス発刊、部旗作成など。これらのことは当時の回生の思い出の記をご覧頂くとして、ここではクラブ運営のあり方という大切な基盤つくりについて触れておきます。

 KUMCは再生後、わずか数年で部員150名の大所帯になります。この大組織を運営して行く体制を整えたのもこの時期です。即ち、

 「執行部5役」は、部長・副部長・チーフマネージャー・コンダクター・コンサートマスターが執行部の中心となり、学内外においてクラブを代表する。

 「技術委員会」は、コンダクターが主宰し、コンサートマスター・各パートチーフ・サブチーフによって構成する。練習方法、技術研究、選曲などを固めて行く。

 「マネ会」はチーフマネージャー(チーマネ)・渉内マネージャー(内マネ)・渉外マネージャー(外マネ)によって構成され、チーマネが召集して演奏会の準備、外部との折衝、部員の世話など諸課題に対応して、クラブの活動が円滑に進むよう互いに協カし合う。

 「財政局」はクラブの会計を、「情宣局」は機関誌や広報を出してクラブ内のコミュニケーションを向上させることに努める。「庶務局」は譜面の管理・入手と諸資料の作成、管理を行う。

 この体制は、時代とともに多少形を変えて来ていますが、学生が「自主独立」でクラブを運営するという姿勢は今日まで貫かれています。


バリケードの中から

 

 1968年の秋、当時のクラブ運営に携わる18回生は苦渋の決断を迫られていました。翌1969年の春に予定している石川県金沢市での演奏会を行うか否か。結果は中止することになり、部長以下キャンセル対応に当たりますが、その原因は当時日本中を席巻した「学園粉争」でした。

 1968年6月に東大安田講堂が学生に占拠され粉争の波が高まります。神戸大では12月、寮問題で学生と学校側が対立し、教養部が無期限ストに突入しました。翌1969年3月には六甲台本館が封鎖され、7月に須磨の高倉山で全学集会が開かれました。8月、大学に機動隊が入り、六甲台の封鎖が解除されてようやく授業が再開されました。

 こうして比較的穏やかな神戸大学の学生も全員が大きな渦に巻き込まれ、教室閉鎖、学生集会などを経験することになりました。全学のクラブ活動にもその影響は反映し、わがKUMCでも楽器を横に、合奏練習ではなく議論をする場となったのです。

 

 19回生は、クラブが割れ退部する人が出るという状況の中での運営を余儀なくされました。バリケードの中に引き込まれる部員もいる一方で、「とにかく楽器を弾きたい」仲問の気持ちをーつにして準備と練習を続け、例年通り1969年12月の第14回の定演を開催したのです。

 しかしながら、この年もまた春の地方演奏会を実施できる状況にはありませんでした。その中で「マンドリン」の音色、クラブの伝統の灯を消すわけには行かない」との思いで、近隣の大学MCに呼び掛けて、1970年4月、学生会館で演奏会を開きました。KUMCは交響的前奏曲/ポッタキアリ」「ニ短調/ファルボ」「黎明序楽/鈴木静一」他を演奏、4大学によるいわば内輪の演奏会ではありましたが、"演奏をしたい"というみんなの思いを表すことができたのです。

 

 目標とし、準備を進めて来た演奏会が2年続けてなくなるということは、クラブ運営上も、また演奏技術の低下という意味でも大きな問題でした。これを乗り越えるには、その後の演奏会に向けて、再び 徹底した練習を繰り返すしかありません。

 その思いを持って次の運営がスタートします。1970年10月神マンに出演、12月に定演を、翌71年3月に松山演奏会、続いて5月に国際会館でSpring Concertを開催します。この問の合宿は7回に及びました。

 いろいろな意味で部員に負担が掛かることを承知の上での活動であり、批判やギクシャクした雰囲気も出ましたが学園紛争は私たちがクラブ活動に「何を求めるのか」を徹底して考え抜く機会を与えてくれたとも云えます。神戸学生マンドリン連盟のあり方を考え、クラブ規約を見直し、そして何よりも諸先輩が続けて来たKUMCの「マンドリンオリジナル追求」を明確に部の活動(選曲)方針として打ち出せたのですから。


激震から復興へ

 

 1995年1月17日、午前5時46分、阪神淡路大震災が発生します。

 クラブの多くの人たちも壊れた家屋から助け出されました。また怪我を負い入院する人や楽器を失った人もおり、混乱状態になりました。何よりも、当時4年生の清水倫行さんと2年生の上野志乃さん、二人の仲問が亡くなったことが部員にたいへんな衝撃と悲しみを与えました。

 大学は休校となりそれぞれ実家に戻ったり倒壊した下宿の片付けや新しい部屋探しなどで、クラブの活動を行える状況ではありませんでした。

 3月24日に予定していた大阪での演奏会は中止となります。

 

 このままでは、みんなバラバラのまま年度末を迎えてしまうので、一度みんなで集まろうということになりました。震災から2カ月を経た3月21日(火)の春分の日、大阪の八尾プリズムホールに震災発生後初めてクラブの仲問が集い、「部内演奏会」が開かれます。集まることだけでも精一杯の状態、お互いに生きて再会できたことを心に深くかみしめました。「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「無言詩」、 地方演奏会のために向けて準備していた「パストラルファンタジー」など、ソロ・アンサンブル・学年ごとの合奏を行いました。

 参加した部員全員が言葉にこそしませんでしたが、それぞれの演奏に「追悼」の想いを込め,同時に「泣いているだけではなく、前に進もう」と気持の区切りをつけた時でした。

 その後、打ち上げをし、四年生(43回生)が一言ずつ、二年生(45回生)が新年度の運営に向けての所信表明をして会を終えました。こうしてようやく年度末の締め括りと引き継ぎができたのです。

 

 弦友会は全会員宛に安否確認の手紙を発信、これに対して200通を超える様々の連絡や支援メッセージが返って来ました。

 そして、1995年12月23日(土)神戸文化ホールで、この年の定期演奏会を開催、第40回という節目の演奏会ということもありOBステージまで企画し4部構成で実施しました。

 定演のプログラムには、「Dear Friends」として清水さんと上野さんへのメッセージが掲載されています。

 当時の運営回生であった45回生中井誠樹さん(部長)の述懐です。

 「39回の定期演奏会も41回の定期演奏会も各回生にとって、渾身の演奏会だったのです。 もちろん40回もみんなの想いを結集した演奏会でした。」

 

 KUMCの定期演奏会は、第5回の復活演奏会以降、毎年12月に途切れることなく今年第60回を迎えます。20年前の震災の年も演奏会をつないでくれた当時の部員たちの強い意志と団結のカがあったからこそ、今があります。